
わたしは今、アドラー心理学の影響を強く受けています。自分を大切にするためには、とても有用な考え方です。ぜひアドラー心理学を勉強してみましょう。
アドラー心理学の真髄を理解できているとは思っていませんが、若くて未来のある人たちが思い悩み、自分を傷つけてしまうことが無いように、もっと自分を大切にしてもらいたいと願っています。
目次
世界にひとつしかないものを大切にする

世界にひとつしかないものがあったら、どれだけ大切で貴重で価値の高いものだろうか。
でも、その世界にひとつしかない大切で貴重で価値の高いものは、意外と身近にゴロゴロと存在する。
だから、その大切や貴重さや価値の高さに気づきにくいものなのかもしれません。
その世界にひとつしかないものは、『自分』なのです。
世界に人口が70億人くらいいるんですが、70億個の大切な自分があるわけです。
ただ、その『自分』を大切にすることができるのは誰でしょうか?
親でしょうか?友達でしょうか?仕事の関係者でしょうか?
いいえ、その人たちも大切な『自分』を持っています。
だから、『自分』を大切にすることができる人はひとりしかいません。
それは『自分』なのです。
他者の期待を満たすために生きているわけではない

そんな貴重でかけがえのない自分を大切にすることは意外と難しいです。
自分を大切にしたいがために、複雑な人間関係が最優先で頭をもたげてしまいます。
他者の期待を満たし、他者から良い評価を受け、他者に承認されようと躍起になってしまう。
でも、これでは自分はいつまで経っても大切にすることができません。
なぜなら、自分は他者の期待を満たすために生きているわけではないからです。
これは逆の立場になって考えればわかりやすいかもしれません。
あなたの周りに後輩のAさん、Bさん、Cさんがいたとして、その3人は何のために生きているのでしょうか?
常にあなたと一緒にいて、常に仕事の相談を受けながら、常に密な関係を構築していたとしても、その3人の後輩はあなたの期待を満たすために生きているわけではありません。
その3人は自分のために生きるべきであって、自分のために生きることが当たり前なのです。
どんなに深い人間関係を構築したとしても、その3人の人生はそれぞれのものであって、あなたのものになることは永久にない。
だから、この3人の後輩はどんなにあなたが手塩にかけて可愛がったとしても、あなたの期待を満たすために生きているわけではありません。
承認欲求を否定する

誰かの期待を満たしたことによって、自分の存在意義を感じてしまいがちです。
ですが、自分は他者の期待を満たすために生きているのではないことは、さきほど申し上げた通りです。
あなたにどんなに期待する人がいたとして、あなたをどんなに認める人がいたとしても、その期待や承認を集めるために自分が生きているわけではありません。
自分は自分のために生きているのです。
だから、誰の承認も期待も満たせなかったとしても、自分を大切にしなくて良いという理由にならないんです。
自分を大切にすることが一番大切であり、自分は他者の期待を満たすために生きてるわけではなく、自分の人生は自分のためにあるわけです。
どんなに深い悩みが自分を苦しめていたとしても、それは自分の世界観の問題です。
この世がバラ色に見えている人もいれば、この世が混沌とした生きるのにつらい世界に見える人もいます。
これは主観的な思い込みからくるもので、客観的に考えれば世界は一つであり同じです。
自分の世界観は主観です。主観の恐ろしいところは、悲観的な世界観を持っていると世界はより絶望的に見えてしまいます。
ただ、世界観は自分で変えることができます。
より明るいところ、より希望に満ちた場所、過去やトラウマではなく、いまこの瞬間の輝きにフォーカスすれば、絶望することも悲観することもないことがわかります。
自分を変えられるのは自分しかいません。
自分の世界観を悲観的なものにしてしまうのか、楽観的なものにするのかは、自分しかスイッチを切り替えることができません。
承認欲求で心が満たされるとこのスイッチがおかしくなります。他者の承認は自分ではコントロールできず、承認を求めれば求めるほど苦しくなるからです。
承認欲求を捨てて、自分で自分を満たしていくこと。
つまり自分を大切にすることは、自分で自分をコントロールすることになり、この世界で唯一変えることができる自分を良い方向に変えることができるのです。
自分らしく生きることは自分勝手に生きることではない

自分を大切にして自分らしく生きることは、イコール自分勝手に生きることではありません。
自分も他者も同じ世界に生きる住人であり、同じ共同体に属しています。
この共同体の中で役に立っているとか貢献できているという所属感や貢献感が非常に重要になってきます。
自分の生きがいであり、やりがいとなるこの所属感や貢献感は自分勝手に生きていたのでは得られない感覚です。
自分を大切にして、他者の期待や承認を求めない生き方は大切ですが、自分勝手に好きに生きることはできません。
わたしたちは社会という共同体の一員だからです。
自分勝手に本当に生きたいと願うなら、誰もいない宇宙空間にひとりでいるしかありません。
完全に共同体から離脱し、自分のことしか考えずに一生を送るしかありません。
そんなことは誰にもできません。
だから、誰も自分勝手に生きることはできません。
社会という共同体の中で自分らしく生きることが大切です。
社会という共同体の中で自分らしく生きるためには、他者の期待や承認を求めることなく、自分を大切にしながら生きる必要があります。
自分らしく生きることを実現する手法として有効なのが『課題の分離』です。
他者の課題を切り捨てる

課題の分離とは自分の課題と他者の課題を切り分けて、自分の課題には他者に踏み込ませず、他者の課題には踏み込まないという考え方です。
課題とはそのことを最終的に誰が請け負うのかを考えて、自分なのか他者なのかを判断します。
たとえば、子どもが宿題をやるかどうかは子どもの課題であり、親が介入すべき問題ではありません。宿題をやらないことによって、最終的に困るのは本人だからです。
ただ、親としては子どもが宿題をやる環境や時間を整えてやる事、宿題がわからない時に支援すること、宿題をなぜやらないといけないのかを説明すること、これは親の課題であり、子どもが考えることではありません。子どもの課題だからと言って、子どもをほったらかしにするということではありません。
こうして課題を分離できると、誰が責任を持つべき問題なのかがすっきりするだけではなく、人間関係もシンプルなものにできます。
ひいてはすべての悩みを解決することにもつながる大切な考え方です。
会社や上司の期待に応えることは、わたしたちの課題ではありません。会社や上司の期待に応えることは仕事の本質ではありません。仕事の本質はお客の期待に応えること、お客に価値を与えること、そして自分の成長や幸せのためです。
わたしたちが仕事をするかどうかはわたしの課題であり、会社や上司が介入すべき課題ではありません。
ただ、わたしたちは勝手に生きているわけではありませんし、会社や上司の指示には従わなくてはいけません。
そのため、会社や上司の指示に従いはするものの、その期待や承認を満たすためにわたしたちが生きているわけではないという点に着目する必要があります。
そのうえで、会社や上司の期待や承認をどの部分でどの程度の範囲で満たすかどうかはわたしたちの課題です。ただ、そのすべてに応えたり、すべての要求に従ったりする必要はまったくありません。
ここを踏み越えてしまうと、パワハラやセクハラすら耐えたり、ブラック企業が存在し続ける原因になってしまいます。
会社や上司がわたしたちにどれほど期待したとしても、その期待が満たされなかった時にどう折り合いをつけるかはわたしたちの課題ではなく、会社や上司の課題です。
その評価がわたしたちの期待に満たない場合、その会社で働き続けるのかどうかはわたしたちの課題です。
会社や上司がわたしたちをどう評価するのか、それはわたしたちの課題でありません。
わたしたちはお客や自分のために働いています。社会に貢献するために働いています。お客や自分のために一生懸命働くことは自分の課題です。
その結果、自分がどの程度の評価を会社からもらえるかは会社や上司の課題です。自分ではコントロールできません。
会社や上司のために働いているわけではないということは、課題を分離しないと見えてこない問題です。
自分を切り捨てることは自分を救うことにはならない

人生における悩みが深くなってしまうと自分を切り捨てようと考える人が出てきます。自分を切り捨てれば楽になれると考えたり、この世界に疲れてしまったり、自分が嫌になってしまったりするからかもしれません。
ですが、自分を変えられるのは自分だけであって、その世界観や生き方は自分しかコントロールできません。
自分という生き様をコントロールできれば、自分を救うことができます。
ここで他者の期待を満たそうと考えてしまったり、他者の承認が得られないことに悩んでしまうと自分の行き場所が見つかりません。
自分の居場所は自分で決めれば良いだけです。他者がどうこうする課題ではありません。
疲れたと思えば休めばよいし、逃げたいと思うなら逃げれば良いだけです。
かくあるべきとして、自分を奮い立たせようとすると自分に無理を要求することになります。
自分を守れるのは自分だけなので、休みたければ休めばよいし、逃げたければ逃げれば良い。
こうした自分の課題を切り捨てて、他者の期待や承認を満たそうとした時、自分の無理や限界を突破してしまい、結局は自分を救うことができなくなるのです。
自分が自分のために生きていけない理由などない

アドラー心理学には、課題を分離したり、自分を大切にするという考え方が強く押し出される印象があります。
身勝手で世間知らずで横暴に聞こえてしまうこともあるでしょう。
でも、アドラーは決して身勝手を許しているわけでもなく、もちろん世間知らずではないし、横暴な生き方を肯定しているわけではありません。
人生のシンプルな答えとして、自分は自分のために生きれば良いと言っているだけなのです。
自分が自分のために生きなかったら、誰が自分のために自分の生を全うしてくれるのでしょうか?
自分のために生きるということを肯定しましょう。
だって、自分の人生は自分のためにあるのですから。
まとめ 【承認欲求を捨て、課題を分離する】かけがえのない自分を大切にすること

自分の世界観はいますぐ自分で変えることができます。
自分の世界観を変えられるのは自分だけですし、自分の考え方次第だからです。
他者に嫌われても構わない、自分の幸せを最優先にしたいと考えることは法律違反でも犯罪でもありません。
ただ、身勝手に好きにわがままに生きることは許されません。わたしたちは社会という共同体に属しているからです。
そのうえで、自分と他者の課題を分離し、自らの人生を自らの手で決定していくという勇気さえ持てれば、かけがえのない自分を大切にしていくことができるのです。
自分を切り捨てたところで、結局は自分のためにはなりません。最悪の結末でしかありません。絶対にいけません。
苦しんでいる原因があるなら、そこから逃げれば良いのですし、他者の期待や承認を満たそうと頑張る必要はないのです。
自分のことを守れるのは自分だけなのですから、この自分の課題をしっかりと認識したうえで、共同体の中で他者に貢献していきましょう。
他者貢献とは自分でできる精一杯のことをやってみるということです。それで他者に貢献できたかどうかを判断するのは他者の課題であるから、貢献できているかどうかを自分が心配する必要はありません。
きっと貢献できたであろうという貢献感が得られれば良いだけです。
自分が自分らしく生きるという課題を全うするかどうかは、誰でもない自分の課題です。他者のために良かれと思って他者に価値を提供し、貢献していくことで自分らしい所属感と貢献感が得られます。
ただ、それで他者がどのように自分を評価するかどうかは他者の課題であり、自分ではどうすることもできません。
自分はただ、自分の良いと思ったことを全力でやりつつ、自分を大切に生き切れば良いだけなのです。
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